ミュータンス菌“感染”予防教育は意味がない
ーむし歯はただの酸蝕症だー

木下歯科医院 院長 木下 亨

 最近、保健所などで若い妊婦に「赤ちゃんにむし歯菌(ミュータンス菌)をうつさないようにしましょう」と指導するケースが増えている。赤ちゃんにキスや口移しをしない、同じ箸を使わない……といった「母子感染予防」が熱心に説かれる。しかし、これは一見科学的に聞こえるが、冷静に考えればナンセンスである。
 
 そもそも、ストレプトコッカス・ミュータンス(ミュータンス連鎖球菌)は、病原菌なのか? という問いが重要だ。感染症とは、病原性を持った微生物が体内に侵入し、病気を引き起こす状態を指す。しかし、ミュータンス菌はどこにでもいる口腔内の常在菌であり、それ自体が「病原菌」というわけではない。
 
 確かに、新生児の口の中にはミュータンス菌は存在しない。母親や周囲の大人との接触によって、徐々に口腔内に定着していく。しかし、この過程を「感染」と呼ぶのは医学的に適切ではない。言ってみれば、空気中の細菌やウイルスに「感染した」と騒いでいるようなものだ。
 
 では、なぜむし歯になるのか。問題は「菌」そのものではなく、その代謝産物である「乳酸」にある。ミュータンス菌は糖分、特に多糖類(砂糖やでんぷん)を餌にして乳酸を生産する。この乳酸が歯の表面にあるヒドロキシアパタイト(HAP)を分解し、う蝕(むし歯)はできるのだ。
 
 また唾液の働きは重要であるといえるが。一般的には「唾液の緩衝作用によって、口腔内の酸性度(pH)が中性に戻る」と説明されることが多い。しかし、これは誤りであり、緩衝作用により、酸性の化合物が無くなることはなく、乳酸が塩基性のHAPと反応すると、HAPは中性のリン酸カルシウム、乳酸は乳酸カルシウムになるので、結果唾液は中性となるのだ。したがってpHメーターで唾液のpHを計測して中性になったとしても、乳酸が唾液の緩衝作用で中和なったと結論するのは誤りである。
 
 
 むし歯とは、細菌による「感染症」ではなく、乳酸による「中和反応」である。この現象は、コーラなどの炭酸(酸性)飲料でエナメル質がザラザラになってしまう例を見れば明らかだ。細菌の有無に関係なく、酸があればHAPは分解する。
 
 それにもかかわらず、「むし歯は感染症」「母子感染が原因」という物語がいまだに流布し続けているのはなぜか。それは、科学的なメカニズムを理解するのが面倒な人々(情報弱者)に対して、「むし歯=感染症=母親の責任」という単純な因果関係は、思考を節約する呪術だからだ。複雑な化学反応や代謝経路を説明するより、「菌をうつすな」という情緒的なメッセージの方が簡単に伝わる。それが正しいかどうかは二の次なのである。
 
 この誤解が続く限り、若い母親たちは「母子感染」という言葉に怯え、育児を過剰に神経質に行うことになる。むし歯予防に必要なのは、キスや口移しを我慢することではなく、糖分の摂取をコントロールし、食後の歯磨き、うがいで口腔内の酸を除去することなのだ。
 
 科学の名を借りた情緒的な道徳教育ではなく、冷静な化学の目で「むし歯」の正体を理解するべき時が来ている。

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